用務員ぢょんたが日々勝手なことを書き綴っています。

2012年03月16日

良いこと悪いこと普通のこと

こころ
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やったー! 今週始めに無事Macが直って帰ってきた。やっぱりコンピュータがないとダメなワシだということを実感した。そんなうれしいこともあったが、残念なこともいくつかあった。生きている間にはいろいろあるということなのだろう。

人生のなかで起こる、良いことや悪いことにそれぞれ点数をつけて、それを合計したときマイナスなら生きる意味がないんじゃないかと思ったりもする。でもそれは所詮自分の基準なので、自らそのラインを上げるようにすれば自然とプラスになるから、ようは気の持ちようなのだろう。

毎日が普通の日々で0点ではなく、ちょっとでも微笑んだり、安らいだり、おいしかったりして、それを合計して1点なら、たとえ1年の間に3回くらいマイナス100点のような残念な出来事があってもトータルではプラス65点なのだから、それはそれで幸せだと思う。死ぬ3日前に5億円の宝くじが当たったってうれしかない。そう毎日ちょっとだけ充実していると感じられればそれが一番良いのだ。

あの震災から1年。東名高速の海老名サービスエリアでうんこしていたら放送が入った。「昨年の3月11日14時46分・・・みなさん1分間の黙祷を捧げましょう」ぬわ〜、ってぇ、ここでするか。

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画像は、浜名バイパスから上り方面を撮ったもの。右が太平洋で左が浜松方面。なんとかしないとヤバいよこれ。
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2011年06月27日

犬派猫派 こころ

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犬が好きなひとがいる。猫が好きなひともいる。もちろん両方好きなひとも両方嫌いなひともいるが、そういうひとは別として、犬好き猫好きはわりと対照的な性格をしているように感じられる。

よくいわれることに以下のようなものがある。
犬好きは『S』、猫好きは『M』。
犬好きは自己中、猫好きは身勝手。
犬好きは支配欲が強く、猫好きは指図されることが嫌い。
犬好きは依存型、猫好きは自立型。
(他にもいろいろある)

犬と飼い主は主従関係にあり、猫と飼い主は単なる同居人である。
養ってやっているのだから上下関係があって当然と思うひとは、猫の態度をけしからんと思うだろうし、単に一緒に暮らしているだけだから、そばにいるだけで満足というひとにとっては、犬の扱いはちょっと哀れな感じがすることもある。

イギリスのことわざにこういうのがある。
●子供が生まれたら犬を飼いなさい。
 子供が赤ん坊の時、子供の良き守り手となるでしょう。
 子供が幼年期の時、子供の良き遊び相手となるでしょう。
 子供が少年期の時、子供の良き理解者となるでしょう。
 そして子供が大きくなった時、自らの死をもって子供に命の尊さを教えるでしょう。

また、それをもじって猫バージョンもある。
●子供が生まれなければ猫を飼いなさい。
 猫が赤ん坊の時、あなたは猫の良きしもべとなるでしょう。
 猫が幼年期の時、あなたは猫の良きしもべであるでしょう。
 猫が少年期の時、あなたは猫の良きしもべでいるでしょう。
 猫がおとなになった時、あなたはやはり猫の良きしもべのままでしょう。
 そしていつかその時、猫は自らの死をもってあなたの心に猫型の穴を開けるでしょう。
 その穴を埋めるには、また猫を飼うしかありません。

なんとも言い得て妙だ。

ワシは猫を飼っているが犬も嫌いじゃないのでどちらともいえないが、ひとつ気づいたことがある。それは、猫を飼っているひとは「できるなら今度は猫に生まれ変わりたい」とよくいうが、犬を飼っているひとは「犬に生まれ変わりたい」とは決していわないということ。つまり、猫好きは猫に憧れているが、犬好きは、犬が好きな自分が好きということなんじゃないかと思う。

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これはなんという生物なのでしょう。
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2011年03月21日

冷やせ冷汗 こころ

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原発事故で「にわか核博士」があふれている。この短期間で日本人の多くが放射性物質に詳しくなったことだろう。ワシは「アルミホイルを体に巻き付ければ少しは放射線避けになるのではないか」と思いついた。が、すでにネットでも話題になりテレビでも取り上げていたらしい。

---フジテレビで「アルミホイルを体に巻くと放射線を遮る」って噂は本当か聞かれた沢田先生が「趣味で巻くのは自由」って(w。そのうち「ググレカス」って言い出すんじゃないか。この番組、専門家の無駄遣いだろう。---(twitterより)

だども、電子レンジでわかるようにアルミホイルは電磁波をはじき返す。だったら心配性の人のための気休めぐらいにはなるのではないか。少なくとも紫外線は遮ることができるだろうしダイエットにもなるらしい。紫外線だって被ばくするしガンを引き起こすのだから。

あまりにも不安で病気になりそうな人は、アルミホイルを体に巻き付けてその上からウェットスーツを着て、中を水で満たせばほんの少しだけ効果があるかもしれない。というよりも倉庫のような窓のないコンクリート製の建物の中にいれば一番いいだろう。

要人は万が一のためもうすでにシェルターを用意しているのだろうか。日本政府はなぜにアメリカによる原子炉冷却の技術的支援を断ったのか。おそらくあの時点で、事態はそれほど深刻には見えないが世界中に「日本は終わっとる」と思われたくないという見栄だけの問題だったのではないのか(借りを作ると今後の外交がやりにくくなるという)。

地震のほうも含めて予言説や陰謀説まで浮上して様々な情報が交錯している。一人ひとりが入ってきた情報を自分自身で租借して冷静に判断するべきだろう。

一昨日、自動車で国道一号線を走っていて暴走族に遭遇した。周りの迷惑をかえりみず爆音をまき散らしながら他の自動車を縫うように蛇行しながら抜いていった。彼らはいったいどこへ行こうというのだろう。「火事場泥棒や義援金詐欺」。そういったことが起こらないというのが日本の誇りではなかったのか。連日テレビで感動シーンを伝えているが、そのギャップにちょっと情けない気持ちになってしまった。

写真は映画「サイン」のワンシーン(宇宙人に思考を読まれないようにアルミホイルの帽子をかぶっている)
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2011年03月07日

春はあけぼのいとわろし 

今日はワシの誕生日だ。だからどうだというわけではないが、ワシにとっては四半世紀の大台に乗った記念すべき日なのだ。思えば人生25年いろいろなことがあった。

『人生とは映画のようなもの』主人公は自分。 たくさんの人に感動を与える映画もあれば、 つまらない映画もある。 楽しい映画、悲しい映画、スリリングな映画、退屈な映画。 そしてどの映画も必ず終わる。
と、ここに書いてあった。確かに長編もあれば短編もある。

よく映画などで「最後に笑ったものが勝ち」とかいうが、人生はそうじゃないと思う。ずっと辛いおもいをしたり苦労を重ねて生きてきて死ぬときだけ笑えることがあっても、ワシはそんな人生いやだ。時々辛いことや悲しいことがあってもおおよそ微笑んでいられれば、それはそれでいい人生だと思う。勝ち負けとか考えること自体、残念な気がするし、そもそもいったい誰に勝つのかと思ってしまう。

「きょうはちょっぴりうれしいことがあった+1点」とか「久しぶりにとても悲しいことがあった−5点」を加算していって、死ぬときその思い出の合計が正数なら良しとするべきだろう。そう考えるといままでのワシはかなりいい人生を歩いて来たといえる。あとはクライマックスに向けてちょっとだけ盛り上がっていきたいところだ。(四半世紀じゃなかったのかい!)

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人生、細く長く。(気持ち悪いて)
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2011年02月22日

10年前 こころ

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先日聞いた話だ。

人はよく「昔はよかったなあ」「10年前に戻ってやり直したいよ」などとため息をもらす。誰しも自分の人生は後悔の連続であり、できることなら過去に戻ってやり直せればと思うこともある。いま、ここにタイムマシーンでもあって一度だけ10年前に戻してもらえるなら、今度こそきっと有意義に時間を使いなにかと頑張れるに違いないと希望がわいてくる。

あなたはいまいくつだろう。思えばここ10年後悔の連続だった。そしてその過去をやり直すため、いまタイムスリップで希望どおり10年前に戻ってきた。30歳の人なら40歳の自分から、40歳の人なら50歳の自分から10年前に戻ってきたのだ。いまの自分は10年後の未来から戻ってきた自分なのだと。

そう考えれば、確かにちょっと元気が出てくるような気がする。同じ過ちを繰り返さないように明日から頑張ろうと思えてくる。難しく考える必要はない。あなたは今度こそうまくやれる。
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2010年10月31日

著作権 道徳

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「あの店に珍しいパンがあって、おいしいんだって」
「そういうのって流行るとどこの店でも売り出すよね」
せっかく職人が工夫して創作したのに、最初に作った人は気の毒だ。
料理とかに著作権はないのか?

著作権は「言語、音楽、絵画、建築、図形、映画、写真、コンピュータプログラムなどの表現形式によって自らの思想・感情を創作的に表現した者に認められる」ものとある。したがって、パンは上記にないので、ましてや思想や感情を表現したパンはないので当然著作権は認められない。(ただし、ギリシャ彫刻のような芸術的に優れたパンを焼けばそのかぎりではないかも知れない)

昭和の終わり頃「顔真卿自書建中告身帖事件(読まなくていい)」というものがあって「書」の版権で争った裁判だ。簡単にいうと、大昔の人が書いた非常に貴重な書集があった。その書は最初Aさんが持っていて、Bさんに撮影を頼んでいた。その後、CさんがAさんから書を譲り受けた。のちにBさんから写真のネガ(乾板)を譲ってもらった出版社がそれを印刷販売した。怒ったのはCさんで、自分が所有している貴重なものの複製を売って儲けるとはけしからんということで出版社に販売差し止めを求めたのだ。

結局、最高裁では(難しい説明は省く)「まあいいら」ということになった。そりゃそうだろう。モナリザのジグソーパズル売ったってルーブルからは訴えられないし、金閣寺の絵はがき売っても文句が出ないのと同じだ。(たぶん)

それにしてもこういった「権利」というものは複雑だ。たとえばマリリン・モンローのポスターが貼られている壁を描いた絵画が飾ってあるのを鑑賞している人を後ろから撮影した写真とか。。。誰にどういった権利があるのかわけがわからなくなってくる。そういえばワシがむかし印刷の仕事をしていたころは、自分が作ったものを当たり前のように流用されたものだ。下請けは立場が弱いので見つけても苦笑いする程度で文句も言えなかった。

人間どうしてもお金が絡んでくるとお互い権利を主張したくなるし、倫理観も人それぞれなので、ちゃんとしたルールを決めなくては収まりがつかない。「泥棒が買ってくれた肉まんを食ったら罪になるか?」きっとまずいだろう。
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2010年03月12日

散骨 道徳

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島根県に「散骨の島」があるのをご存知だろうか。大山隠岐国立公園内にあるカズラ島は、申し込みをしたのち亡き人の遺灰を撒くことができる島なのだそうだ。自然散骨 カズラ島

このカズラ島は無人島で、約10アールというから、小さめの公園くらいの大きさだ。10年前東京の葬祭業者が島ごと買い取り、この事業を始めたのだが、人知れず人気があり、現在も生前予約が40件ほど、問い合わせは350件を超えるのだそうだ。

きっかけは葬儀屋の社員旅行の際の「死後も、こんな美しい島でずっと眠れたら……」という社員のつぶやきだったそうだ。たしかに自分が死んだあと遺骨をどう供養されようが興味はないし、命日には欠かさずお墓参りに来てほしいともまったく思わない。だいたい歌の文句じゃないけれど、死んだ人がそこにいるわけでもないのだから。ただ願わくば海の見える美しい丘にでもパラッと撒いておいてくれるのであれば、それはそれでなんとなく安らぐような気がする。

生きている人は、死んだ人の事をずっと憶えているべきだけれど、死んだ人は自分が死んだことはとっとと忘れるべきなのだ(てゆうかいないし)。きっと「供養」というのは残された人たちが自分の心を整理するために、自らに手を合わせているのだと思うから。
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2009年11月09日

コールド・リーディング 

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『コールド・リーディング』という言葉を聞いたことはあるだろうか。コールド・リーディングとは、詐欺師や占い師、霊能者のたぐいが、相手に自分の言うことを信じ込ませるときに用いる話術だ。

一番有名なのは、初めてあった人に「あなたのお父さんは死んでいませんね」というやつだ。よく考えれば「死んで(この世に)いない」とも「(生きていて)死んではいない」とも受け取れる。しかし占い師や霊能者のところへ訪れるほどの精神状態なので、その言葉を自分の都合のいいほうへ解釈してしまい「当たったスゴい」とその詐欺師をすっかり信じ込んでしまう。

他には「幼い頃、高熱を出したことがあるだろう」とか「子どもの頃、生き物を飼ったことがある」、「最近なくしものをしたでしょう」とか、年齢がすこし高そうに見えれば「あなた最近、視力の低下で困っていますね」などなど、いかにも当たり前の事を、さも能力のなせる技のように言葉巧みに言ってみせる。そうやって、じわじわ信じさせて、さらに会話の中から情報を引き出し、様々なことを推測して質問を繰り出す。

相手の間の取り方や、仕草、表情などからもその人のことを敏感に感じとって信頼を得ると、しまいには「霊」のせいにする。その後、間違おうが外れようが霊のせいにしておけば問題ない。霊能者にしか見えないのだから誰も反証不能で否定できない「そう言っている」とか「泣いている」とか都合のいいように言えば大丈夫。なんたって霊なのだからなんでもアリなのである。

ところが、世の中には本物もいるようだ。カミサンが若い頃(まだワシと出会う前)のことだ。ある大きな神社の境内にいた易者さんは、まったく会話や質問をせず、カミサンの手を取ってこう言った。
「あなたお父さんいませんね。あなたは近い将来、西の方角の糸関係の工場をやっている家の跡取りのところへ嫁にいくでしょう」

十代の娘をつかまえて「父親がいないだろう」といって、いったいどれだけの確率で当たるのか。上に書いたコールド・リーディングの技法とは違う。「死んで」がないのでこの場合意味はひとつしかない。死んでいるか生きているかということをいっているのではなく、とにかくいないのだ。確かに当時カミサンに父親はいなかった。

その神社というのは三島大社で、方角からすればワシの住んでいたところは真西だ。日本列島は東西に長いゆえ、西か東といっておけばほぼ当たるだろう。こちらは確率1/2ぐらいで驚くほどのことではない。驚くべきはその次の「糸関係の工場の跡取」。ワシの実家はロープの製造業をしており、ワシはひとり息子なので当然跡取りだった。ロープは糸を束ねて作るので毎日触っていたわけだし、「糸工場の跡取り」は、完璧に当たっている。

カミサンが八卦見からその話を聞いたとき「西の糸といえば、京都西陣織の会社の御曹司」と、都合のいい解釈をしたそうだが、まったくおあいにくさまである。それにしてもぜんぜん会話もせず手に触れただけでそこまで言い当てるとは、その占い師はやはり本物だったのだろうか。別にそのあと「なにかが憑いている」ともなんともいわれなかったそうだから、やはり信憑性は高い。
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2009年11月07日

刷り込み 

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いくつかの質問に答えると血液型を当ててみせるというサイトがあった。
http://homepage3.nifty.com/mamy/abo/
ワシはB型で見事に当たった。しかしだ。
学者にいわせると、血液は栄養を運ぶためのもので「人の性格を左右する」成分など含まれていないという。ではなぜ当たるのか。

結果発表の際、以下のような解説も出た。
--------------------------------
●あなたは、自分の意見を持っており、心広くたくましい性格ですが、
人に合わせず独走することがあり、無神経と思われるかもしれません。
▲あなたは、面白く、無邪気で、正直な性格の持ち主ですが、
お天気屋で、少し考えが甘く、アマノジャクかもしれません。
■あなたは、人なつっこく、涙もろく、人情味にあふれていますが、
少しおせっかい屋さんで、安請け合いし、無用心でだまされやすく、
やや浮気性でケジメがないかもしれません。
◆あなたは、客観的に物事を見ることができ、判ってくれる人ですが、
いい加減で煮えきらなく、少しウルサイ人かもしれません。
◎あなたは、感受性が強く、無邪気で、夢や理想がありますが、
子供っぽく、やや現実離れ気味で、口先と心が違うかもしれません。
--------------------------------
ワシは「多重人格障害」か! いやそうではない、結果は誰にでも当てはまるようにできているのだ。どんな人だって多面性を持っている。質問の一つ一つに答えが用意されていて、ただそれを並べているだけのようだ。

誰だってこれまでに血液型占いは幾度となくしたことがあるだろう。いや、なくたって各血液型のおおよその特徴くらいは知識として持っているはずだ。自分の血液型とその性格を知った上で、物事を判断したり、考えたり行動する。「A型は几帳面。だから自分は几帳面、であるべき」などと、知らず知らずのうちに刷り込まれているのではないだろうか。

三人称単数で血液型の話になるとよく当たる。その単数はたぶん子供じゃないだろう。大人はいつのまにか知識に影響されているが子供はそうじゃない。まだしっかりとした性格が形成されていないので、たぶん当てるのが難しいのではないだろうか。もしあなたに子供が生まれたら、たとえ違っていても自分の理想とする血液型(性格)を教えて育てれば、その方向に行ってくれるかもしれない。

ちなみに血液型が変わる人がいるらしい。骨髓移植や白血病、消化器系の癌などで血液の構成が変わって、別の血液型になるのだという。そういう人は性格も変わってしまうのだろうか。。。。次回コールド・リーディングにつづく・・・
posted by ぢょんた at 22:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 道徳(こころ)

2009年11月01日

道徳その普遍性と多様性 

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そう【法律は道徳律の下に位置する】のです。道徳は人が人であった時からそのようにあり、基本的にはなにも変わっていません。ただし国や文化、宗教の違いからそれぞれの場所で様々な道徳的解釈があります。さらに個人の性格や考え方の違いにも幅があるため一様ではありません。

道徳観の基本は人間に、もともとある程度備わっているようです。ある調査によると、たとえば、幼い子供に「盗むことは悪いこと」だと教えると「盗みは『常に』よくない」と認識する一方、「騒ぐのは悪い」と注意すると、「『今』騒ぐべきではない」と判断するようです。幼い子供でも「普遍的」と「状況的」の判断はいわれなくてもつくということです。

ところが人間は、生きるために自分を一番大切にするという本能が備わっているので、「知恵」が発達して「安心」や「快楽」を求め、やがて「欲」につながります。人それぞれ道徳観が違う中で、自分中心に生きていれば、どこかで衝突が生じて「憎しみ」や「ねたみ」となり、それが争いごとになります。

道徳には細かい共通の取り決めごとや罰といったものがありません。人が人を裁くべきではないのだけれど、それでは皆が安心して暮らすことができないということで、人が道徳をベースに「ルール」と「罰」を決めたのが「法律」です。だから【法律は道徳律の下に位置する】ということになります。

しかし法律は、所詮人間が作った取り決めごとです。多様化した道徳律を、とりあえず一元化したものなので、不適切だったり不当だったりと、かなりずさんな作りになっています。「人を殺したりものを盗んだりすることは法律で禁止されているから悪いのか」そうではなく、道徳的によくないことだから法律で禁止されているのです。

「道徳を守って生きていたら罰を与えられた」それはきっと法律が間違っているのでしょう。
posted by ぢょんた at 20:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 道徳(こころ)

2009年10月05日

おい 

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新幹線で家へ帰るときの出来事だ。16時33分発ひかり521号新大阪行きは連休前とあってわりと混んでいた。3人掛けの窓際の席にいたサラリーマン風の男性に「ここいいですか」と声をかけてワシは通路側の席に座った(男はこちらを見もしなかった)。

数分後、発車する頃になって、窓ぎわの男は携帯電話を閉じて、なにやらソワソワしはじめた。「しまったー」「しまったなー」「なんだよー」。ブツブツ独り言をいっている。そのなかに「喫煙」という言葉が聞きとれた。

おそらくこの人はタバコを吸わないのだろう。それを知らずにこの3号車に乗ってしまって後悔しているに違いない。(大丈夫だよ、普段ワシは新幹線の中ではタバコ吸わないから)などと思っていると、その男は突然荷物を抱えて立ち上がりワシの前を通ろうとした。

慌ててワシは自分の荷物を持ち上げ、男が通りやすいようにそれを通路側に出して、短い足をさらにすぼめた。よほど我慢ならなかったのか、男はワシの前を通過すると、そのままワシが手に持っている荷物に激突して無言で後部車両へ移っていった。

ぶつかってくれたのは、さっき八重洲の地下で買った娘へのバースデーケーキだった。あのなぁおっさんよ、そんな自分にだけ神経質で周りにガサツだと出世できないぞ、って、おっさんだから出世できなかったのか。

家に帰って開けてみると幸いなことに、ケーキは奇跡的に無事だった。しかも美味かった。(おまえも食ったのか)ごちそうさまでした。
posted by ぢょんた at 04:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 道徳(こころ)

2009年09月06日

中国の道徳アニメは不道徳? 

パクリの多い中国がまたしてもやってくれたようである。
中国の情報サイトが発表したところによると、中国中央電視台(中国中央テレビ/CCTV)が放送中の道徳アニメ『心霊之窓』が、日本の映像クリエーター新海誠監督のアニメ映画『秒速5センチメートル』に絵柄が酷似しているという。この事実を知って中国国民からも「恥知らず」「情けない」など、批判や怒りの声が殺到しているそうだ。

両作品を交互に観れる映像がYOUtubeに上がっていたので貼っておく。




ワシは新海誠のファンなのでこの『秒速5センチメートル』のDVDは持っている。問題の『心霊之窓』もYOUtube上にあったので一部観たが、とんでもない、『秒速』だけじゃなく他の新海作品や、さらには別の日本製アニメのパクリと思われる箇所が随所に出てくる。

新海誠氏は温和な人のようなので、このニュースを知っておそらく苦笑いしていることと思うが、それにしても毎度の事ながら中国のやることは大胆だ。バレるとか恥ずかしいとか思わないのだろうか。そもそも人間性が違うのかもしれないが、常識を逸脱したことを次々とやってくれる。

数年前、中国を旅行した友人から聞いた話だと、北京から飛行機で上海空港に降り立ち、空港のトイレへいったら満員で、待ちきれない人が手洗場で用を足していたという。女性までもがヘーキでやっていたというからビックリだ。

高度経済成長のまっただ中にある中国。今回の件にしても批判の声が多く上がっているそうだから、今後少しずつでも文化意識というか、精神レベルというか、モラルの向上に努めてもらいたいものである。

ある有名イラストレーターがいっていた言葉を思い出した。
「以前は、真似されるようになれば一流だと思っていましたが、今は真似のできいない作品を描くことが一流だと思っています」
当時は「スゴい言葉だ」と感動したものだが、現在のデジタル時代にはちょっと当てはまらないのかもしれない。

『心霊之窓』はあきらかに盗作だが、国内だってかなり似ている作品は少なくない。どこまでが「パクリ」でどこまでが「効果を真似た」で、どこからが「影響をうけた」のか境界があやふやだ。しかしそれはともかく、真似されるようなものを一番はじめに創った人はやはり偉大だと言えるだろう。

参考ページ
http://ameblo.jp/0k0k/entry-10334828048.html
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0902&f=national_0902_035.shtml
posted by ぢょんた at 04:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 道徳(こころ)

2009年05月11日

余命 

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映画『余命1ヶ月の花嫁』が上映中だ。これはTBSのドキュメンタリー番組の映画化で、乳がんと闘い、24歳の若さで亡くなった長島千恵さんの「最後の1ヶ月」を追った実話である。

本編とは別の、のちに発覚したスキャンダルでこのところ話題になっているが、そんなことはどうでもよろしい。映画にせよドキュメンタリーにせよ多少の演出はつきものだし、その人が以前なにをしていたかは問題ではない。少なくとも、若い身空で病と闘い、必死に生きようとしたことは事実なのだから。

実のところワシはこの手の話が苦手だ。作り話にせよ実話にしろ、つい真剣に観てしまいいつまでも頭から離れなくなってしまう。だからといって拒否しているわけではなく、機会があればもちろん観ようと思っている。

人生の長さは人によって違う。長い人もいれば千恵さんのように若くして亡くなるかたもいる。だがしかし、いずれ死は訪れる。大切なのは「いかに生きたか」ということなのだと思う。

先日、むすめからこんな話を聞いた。
あるところからあなたの預金通帳に、毎日毎日86,400円振り込まれる。ただし、そのお金はたとえ使わなくても次の日になるとすっかり消えていて、貯まっていくことはない。朝になればまた86400円振り込まれているとしたらあなたはどうしますか? というものだ。

よほどのお金持ちでもない限りほとんどの人が、毎日下ろして使うだろう(タンス預金はなし)。使っても使わなくても消えていくのだったら無駄なものでもなんでも買って使わなきゃ損だ。

だがそれは、実はすべての人に毎日行われている。「時間」という形で。だれしもが毎日「86,400秒」という時間で受け取っているのだ。

毎日もらえる時間。どんどん消えてゆく時間。いつか振り込まれなくなる時間。ワシははたして有効に使っているのだろうか。
posted by ぢょんた at 00:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 道徳(こころ)

2009年04月27日

偶然は必然 

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友達のナオちゃんが死んだ。高校の後輩でまだ45歳だった。1年前にガンの告知を受け21日に亡くなったそうだ。20年ほど前に弟を亡くした彼は、さらにこの10年で両親、祖母と先立たれ、未婚で家族もいないまま、その家の最後の一人として安らかに息を引き取ったという。さぞかしさみしかっただろうと思うと、何もしてやれなかった自分にも腹が立つ。ナオちゃんとは、もう十数年会っていなかった。以前はかなり親しくしていたのだが、住まいが離れていることもありいつの間にか疎遠になってしまっていた。

友人からメールで知らせを受けたとき、ワシはたまたま東京から自宅へ帰ってきていた。通夜は彼の自宅でおこなわれるという。東京にいたのなら訃報を聞いてもどうしようもならないのだが、自宅からナオちゃんの家までなら車で1時間足らずのはずだ。家族ぐるみで親しくしていたので妻も通夜には行きたいという。ところが、誰もナオちゃんの家を知らない。彼が来るばかりで誰も行ったことがなかったのだ。そこで、無理をいって同級生の友人に高校時代のアルバムから古い住所と電話番号を教えてもらい確認のために電話をかけてみた。だがコールはすれど誰も出ない。

連絡をくれた友人は、ナオちゃんとそれほど親しいわけではなく、ちょっとした付き合いから彼の死を聞いたのだそうだ。それは、知り合いの友達の友達というつながりであり、さらにその友達のワシの耳に入るには、かなりの偶然が重なっていると思われた。これはどう考えても行くべきだ。でないと後で後悔する気がしてならなかった。

理由はわからないが、電話をしても誰も出ないので正確な日時の確認がとれない。住所も市町村合併前のもので、古いので地図で確認ができない。しかし、字(あざ)はわかるし、近くまで行けばなんとかなるだろうと思い、行き当たりばったりで出かけることにした。1時間ほど車を走らせ、もう少しかと思いながら、ふと道路脇を歩く人に目をやると、なんと喪服ではないか! すぐさま車から降りて聞いたところ、確かにいま通り過ぎた道沿いに法要の灯りが見える。その人たちが歩いていなければおそらくずいぶんと通り過ぎてしまっていただろう。

初めて入るナオちゃんの家は、田舎の旧家という感じで大きなものだった。ちょうどお経が済んだのだろう、坊主が二人、ワシらと入れ違いだった。受付を済ませ親族のあいだを通って仏前まで進むと、広い日本間の真ん中に、立派な布団を掛けられたナオちゃんが静かに横たわっていた。

ナオちゃんはとてもガンで死んだとは思えないほど凛々しい顔で、いまにも「なんちゃってー」と目覚めそうなくらいだった。これも偶然で、遅れていったおかげで、彼の枕元で生前の様子などを親戚のおじさんからゆっくり聞くこともできた。

この度はかなりの偶然が重なって、ワシらにとっては運命というか、導きのようなものを感じざるをえない。彼が最後に会いたいと願ってくれたんじゃないかと勝手に思っている。告知を受けてこの1年、友達に「見舞いなど来なくていい」とつよがっていたそうだが、時折ふと自分の人生を振り返って様々な思い出がよみがえったに違いない。その記憶の一片にワシらもいたのかもしれない。

もうナオちゃんになにもしてあげられないけど、せめて、あの優しく人なつっこい笑顔を、ワシは死ぬまで忘れないだろう。カラオケに行くと決まって歌ってくれた『東京ラプソディー』とともに。
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2009年03月18日

iPhone落とした!

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いつもより増して混んでいる東京駅を出ながらマナーモードを解除しようと、腰にぶら下げてあるはずのiPhoneに手をやった。「はれ?」ないないない、ないないナイ、無いイイイイィィィ!!!!! どうやら人混みにもまれているうちに落としてしまったようだ。

慌てて来た場所を戻りながら、新幹線の改札まで探したが当然見当たらない。車内に落としたのかもしれないし、ホームや改札までの通路かもしれない。駅員に尋ねたら、いまのところここへの届け出はないという。念のため車内清掃(終点なので)に問い合わせするから待つようにいわれたので、その間にもう一本持っている携帯電話で自分にかけてみたが、コールするだけで誰も出ない。

三度かけたが応答がないので、しばらく時間を置いて神にも祈るような気持ちで四度目をかけた。出た。男性は、新小岩の交番の巡査で、いま落とし物の届け出があったばかりだという。事情を説明してすぐに取りにいくと伝えたが、ところで「新小岩」って、どこだ?

「東京駅から総武線の千葉方面に乗って五つ目の駅、南口から出るとすぐ前にあります。」五つ目! 30分も経たないうちにずいぶんと遠くへいってしまったものだ。とにかくよかった! 親切な人が届けてくれたらしい。なんとか新小岩までたどり着き、交番で受け取りの書類を書いて、優しい巡査たちに帰りの道順まで聞いて、メトロ半蔵門線に向かうワシだった。

知らない街で、重い荷物を抱え、なんとも心細く情けない気持ちになってしまった。遠くへ運ばれたのはなんだが、もし、多少わかっている人間が拾えば、ヤフオクで売り飛ばすなり、iPod touchの代わりに使うなり、なんとでもなるiPhone。いやー、助かった。これからは絶対気をつけるぞ。

拾ってくれた人は、名前も名乗らず置いていったそうだ。
ありがとうございましたm(_ _)m
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2008年02月28日

「ありがとう」 

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potさんのコメント、激しく同意です。またリンク先のYahoo知恵袋の内容がたいへん興味深いです。
店員に「ありがとう」と言う人が大嫌い。おかしいのでしょうか。。。
おもわず全部読んでしまいました。

人は本当にたくさんの考え方や常識を持っているものなのだと感じました。いまの社会のモラルの縮図をみるようです。“普通”という概念は人ぞれぞれで少しずつことなるものなのです。

学生の頃、マクドナルドでアルバイトをしていた娘がいっていました。わたしは、お釣りを渡すときお客の目を見て、お釣りをこぼさないように相手の手を両手でそっとつかみ、ありがとうございました、と笑顔でいう、と。相手が「ありがとう」と応えてくれるととっても嬉しい気持ちになると。

また別の知り合いの娘さん(クリスチャン)は、同じマックの店員で、自分はお釣りを渡すとき、絶対お客の手に触れないようにするプロだと自慢していました。しかもそのお嬢さんは、ボランティアで外国の福祉活動に参加するような心の優しい娘さんです。

普通とか常識とかの枠は人それぞれで少しずつちがっているものなのでしょう。しかもそれは社会の中で徐々に変化している。他と関わりを持たずに生きていける人間は少ないです。夏目漱石の「草枕」の冒頭に.

  智に働けば角が立つ。
  情に棹させば 流される。
  意地を通せば窮屈だ。
  兎角に人の世は住みにくい。

というのがありますが“常識”の許容範囲が広い人が「生きるのが上手な人」ということになるのかもしれません。

ララァがいっていますが、
「美しいものが嫌いな人がいるのかしら?」
いるんです。普通に。

写真右は無関係です。ヘルメットをかぶらないと心が死んでしまいますよ。
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2008年01月31日

バージンロード 

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昨年延期になってしまった娘の結婚式を、先日ようやく執り行うことができた。教会での式は初めてだったが、ガラス張りの建物内はたいへん明るく、とてもおごそかで素敵な空気がたちこめていた。カトリックかプロテスタントかはわからないが、神父さんは外人で、なまりのある日本語で聖書を朗読していたが、むしろそれがいっそう雰囲気を盛り上げていた。さらにシスターが歌ってくれた賛美歌「アメイジング・グレイス」は、心が洗われるような透き通る声で、聴いていて自分が天に昇るような気分になってしまった。

初めての教会での結婚式で、しかも新婦の父親としてエスコートする役目のワシは若干緊張はしたが、だからといって感激に涙するというよりも、その厳粛な光にただぼんやり浸っているだけだった。

よく映画で見るシーンのなかに、誓いの言葉がすんだあと「この結婚に異議があるものは、いま名乗り出るか、永久に口を閉じなさい」というのがあるが、その一節はなかった。代わりに印象的だったのが「いま神によって二人は結ばれたのであるからして、今後なんぴともこれを引き裂くことはできない」言葉はちがうが、それっぽいことを言っていて「なるほどね〜」などと感心してしまった。

なにはともあれ、無事娘の挙式がすんで肩の荷が降りた気がしているワシだった。
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2008年01月08日

あぅ!駐車違反 

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昨年12月初めのことだった。ちょうど実家に帰っていて、Mr.ドーナツへ行く用事があり、そのすぐ近くにある郵便局へもいく用事があった。さらに出かけようと思った時、自動車保険の更新の件で友人の保険屋から電話があり、いまどこにいるのか訊いてみると会社の近くだという(保険屋は郵便局の向かい)。

タイミングよく一カ所で3つの用事を済ますことができるので、ミスドで待ち合わせしてコーヒーを飲みながら保険の更新手続きをした。ドーナツ屋の真ん前の車が見える位置に路駐して。

その間約10分。時々自分の車を見ながら注意していた。んが、しかし! 店を出てみるといつの間にかフロントガラスに派手なシールが!! 誰も近づいた様子はなかったのにいいぃぃ。。(やつら忍者か)

文面がまわりくどく意味不明な内容なのでほっておいたら、一週間後にちゃんと来ました「振り込み用紙」。いちまんごせんえん也!あぼーん。たった6分でも違反は違反です。そうです反省してます。一万五千円あればあんなことやそんなことや、こーんなことまでできたのに。ガッカリです。

しかしいまは便利な時代ですなぁ。ペイジーというものがありネットバンキングで払えるんですね。反則金とか税金とかは。えーえー、簡単でしたとも。ほんとに簡単に財布の中身がなくなりましたよ。
みなさまもお気をつけあそばせ。
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2007年11月08日

不運 

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娘の結婚式が延期になってしまった。結婚式前夜、花婿の母親が交通事故に巻き込まれて入院してしまったのだ。母親が運転の信号待ちをしている軽乗用車に、若い女性の車が脇見運転で後ろから突っ込んで、さらにその勢いで前の車にもぶつかるという、いわゆる玉突き衝突だ。事故の際、母親は心臓発作のため意識はなく、救急車で病院に運ばれ意識は取り戻したものの、頸椎損傷のためしばらく入院が必要となってしまった。

当然、翌日の挙式はキャンセルとなってしまい、その日から事故の話し合い、挙式費用の保証、出席するはずだった身内へのお詫びなどで、本人たちはてんてこまいだ。

加害者とその父親は、翌日お見舞いにきたものの、ふた言目には「すべて保険屋に任せてあるから」などと、どうも事の重大さを理解していないようで、他人事のような態度にはいささかあきれてしまった。むしろ被害者の母親のほうが、自分のために息子たちの式を台無しにしてしまったと責任を感じて病院のベッドで涙をこぼす有り様で、そんな姿を見ていると時間が経つにつれてだんだんと怒りがこみ上げてくるワシだった。

いやいや、このところ身の回りで何かとアクシデントが多い。ひょっとすると我々は神様に試されているのかもしれない。そういえばそんな事件が相次ぐことで会話する機会も多くなり、お互いを気遣ったり、家族としての結束も強まったような気がする。幸い母親も命に別状はなかったことだし、ここは冷静に、一つ一つ物事を解決したほうが良さそうだ。

写真は、式で使用するはずだったテーブルフラワーやブーケの一部。
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2007年10月14日

エスカレーターのルール 

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田舎者のワシは知らなかったのだが、都会ではエスカレーターに乗る時に皆、左側に一列に並んで乗るらしい。右側を開けているのは、急いでいる人が追い越していけるようにだとか。いわれてみればアベックですら前後で話をしながら左側に寄っている。
もちろん降りてすぐ、どっちへ行こうか、などとその場で立ち止まる人もいない。都会の人は行儀がいいです。
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