用務員ぢょんたが日々勝手なことを書き綴っています。

2007年09月18日

「運転中 メール一文字 事故一生」 

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前の車、様子が変だ。信号待ちの度に、青になっても発進が遅いし、なんかフラフラしてる。と、ドライバーの左手が上がったとき見えた。「携帯いじってる!」 夜だとよくわかるんだよ。たぶんメール打ってるんだろうけど、危ないからやめなさいよ。

多いんだよね最近特に。会話ならともかく(イカンけど)、メール打ってるやつ見ると腹立つなぁ。先日、知り合いが運転中、ほとんど止まっている状態の車の側面に、携帯メール中の自転車ねえちゃんが突っ込んできて、ドアがおもいっきり凹んだと嘆いていた。

どちらが悪いとかじゃなくてさ、そもそもケガしたらつまんないってことわかんないのかねぇ。そんなに大事な用件じゃないでしょう。飲酒運転でも法外な罰金とられるんだから、自転車でもなんでも、通話10万円、メール30万円くらいとってやれ! それか移動中はメールが打てないような機能を付けてくれ。メーカーさん。
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2007年07月14日

普通 

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妻がご機嫌斜めである。なんでも、美容院にいって髪を切ったそうで、その出来がご不満のご様子。みれば若干短くなった程度で(切ったのだから当たり前だが)いままでと特に変わったようには思えない。普通だ。しかし本人にしてみれば究極に変になったそうで、まさに「この世の終わり」状態だ。

たしかに人それぞれ物の価値観や好みがちがう。「普通」という基準もあいまいだ。先日、友人と「色男」について話をしていて、色男の例えで「デカプリオ」を出したら、友人に「えええぇぇぇ!??」といわれてしまった。彼にとってデカプリオは色男ではないらしい。(ブルドックみたいとまでいっていた)ほんとうに人それぞれだ。

色男とは、女性にもてる男。美男子。好色な男。
色男の語源は、歌舞伎で男女の濡れ場を演じる「濡事師」で、色白の美男子に見せるため、顔を白く塗っていたことから、そう呼ばれるようになり、美男子を意味するようになった。とある。

まあ、色男といい男は、若干意味合いがちがうとは思うが、そういう「評価の基準」というか「好みの違い」というのは、いったいどこからくるのだろうか。それぞれの人に好きな色があり、好きな食べ物があり、心地よいバランスがある。「普通の人は何色が好き」という基準がないように、普通というのは人それぞれ微妙にちがう。おたがいの常識や価値観がズレたとき、いざこざやもめ事が起こるのかもしれない。

自分の“普通”を押し付けず、相手の“普通”を理解する。そんなペースがいいですね。
妻は再び美容院へいって、ショートヘアーにしてきた。“普通だ”と思ったが念のため「たいへんカワイくなりました」とほめておいた。ご機嫌は戻ったようだ。それでよろしい。

写真はレオナルド・デカプリオとシャーリーズ・セロン。この人たちCGキャラみたい。
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2007年05月11日

赤ちゃんポスト 

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熊本市の慈恵病院が「赤ちゃんポスト」を始めた。これは事情があって育てられない新生児を匿名で受け入れてくれるという施設なのだが、いかがなものだろうか。確かに「捨て子」を減らすことには一役買うのかもしれない。しかしこういう考え方は「後手」なわけで、むしろ安易な妊娠を助長する恐れもある。そもそもかたちが悪い。縦50センチ、横60センチの扉を外側から開けて、そこへ匿名で赤ちゃんを入れていくのだ。まさにコインロッカーだ。

捨てられたこどもの将来がないとはいわない。絶対不幸になると決まっているわけでもない。そうではなくて「捨てられた」こと自体がすでに不幸なのだ。そういう親から「生まれた」ことが不幸なのだ。「命を救う手段」だということはわかる。が、しかし、順番が逆だ。先にそういう不幸な命が生まれないような対策をしてからじゃないのだろうか。

コンドームをタダで配るでもいいし、中絶(これも是非があるが)を格安でするでもいいが、それよりもなによりも「親はたとえ身が裂けようが我が子を育てたい」という当たり前のことを教育したほうがいい。そんなのネコだって知っている。責任とか義務とかじゃなくて本能なんだから。

無差別殺人事件が多くなったら、だれでも気軽に死刑囚が殺せる「処刑センター」をつくるか? 強盗が増えたら、ボタンを押すとお金が出てくる「チャリンチャリンBOX」作ってくれるか(ワシ欲しい)。

子供があまり好きじゃないワシにも一人娘がいる。苦労もしたが今となってはそれもいい思い出だ。「育ててやった」なんて思ったこともない。それが親の本能なんだから。
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2007年04月03日

夜の夢 

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ワシは時々『空飛ぶ夢』を見る。夢占いによると「高望み」や「欲求不満」のあらわれなのだそうだ。若い時期はともかく、歳をとってからそういう夢を見る人は比較的少なく、叶わぬ野心や夢、高望みを警告しているとのこと。また、夢の中で上手に飛べないのは、性的欲求不満や理想と掛け離れた生活状態をあらわすこともあるなんて書いてあった。

「んなバカな」とは思ったが、もう少し柔軟に考えてみると、野心や高望みではないけれど、やりたいことはたくさんある。つぎつぎと発生してくるが、それを上手にこなせない自分にいらだちや不満を感じているとしたら、少なからず当たっているのかもしれない。

【空を飛びたい=やりたいことがいろいろある】【上手に飛べない=やりたいことが思ったように出来ない】夢の中では、飛ぶには飛べるのだが、ちょっと気を許すとすぐに下降してしまう。調子のいい日は自由に飛べて、わかったような気になっているが、次のときには思うように意識が集中できなくて、少し浮いてもすぐに降りてきてしまうこともある。

しかしワシは思うのだが「夢」なんてもっと直接的で、なおかつ曖昧なものなんじゃないだろうか。
以前、気持ち良く野原上空を飛行中、前方に渓谷がみえてきた。谷だ。この調子で飛んでいけば向こう側まで飛べるだろうと思った瞬間、なぜか自信がゆらぎ、意識が集中できなくなってしまった。谷をゆっくりと降りていってしまう。あせればあせるほど集中できない。深い谷だ。下を見ると当然のごとく(自分のイメージ)川が流れている。「助かった」ゆっくりと降りれば大丈夫だろう。

無事に着水してみると、水は思ったより冷たくなかった。いい気持ちだ。ゴキゲンで泳いでいると、お腹が冷えたのか、あるいはお決まりの展開なのか、にわかに“も・よ・お・し・てきた”。そうだここは川なんだ。他に誰もいない。このまま“して”しまっても何ら問題はない。すればいいんだ。してしまおう。さぁ出るぞ。もーう出るぞ。でる? でるって????? なにが??? !!!イッカァアアアアアァァァァァァァァァーン!!!!!!「これは夢だ!」、寸前のところで目覚めた。間一髪とはこのことだ。冷や汗をびっしょりかいて、すぐさま眠い目をこすりながらトイレに行ったのは言うまでもない。

飛ぶことは気持ちがいいし、飛び方を知っているから「飛ぶ夢をみる」。夢を見ている最中“尿意”をもよおして意識が集中できなくなったので、してもいい場所(川)を用意して、そこでしてしまおうとする。夢はそんな単純なメカニズムなのかもしれない。

この歳で「おねしょ」は恥ずかしいだろう。過去にもう一度だけ、ヤバかった経験があるが、その夢の話はいずれまた。
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2007年03月25日

暴力団 

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“暴力団”...字を見てあらためてダサイ呼び方だと感じてしまった。“極道”や“ヤクザ”はそれなりにしゃれた響きだが「ぼうりょくだん」ってぇ、なんかセコそう。わざとそういう名前をつけるのであればいっそのこと「こまったちゃん団」(かっこわるー)とか呼べば、誰もやりたくなくなるだろう。

ワシは、とある交差点で信号待ちをしていた。ここの角の建物は「組事務所」だ。親分がお出かけなのだろう、若い衆が十数人出てきている。その内の数人が道ばたに走り出てきて、通行中の車を手で制して止めている(横柄な態度で)。すると駐車場から高級車が出てきて、若い衆がお決まりのポーズ(片手を出せば「おひけーなすって」)で見送る中、赤信号にもかかわらず無視して走り去っていった。

この建物の周りにはテレビカメラがいっぱい付いている。おそらく建物ぐるりをモニタできるようになっているのだろう。いつ命を狙われるかわからない職業。夜もおちおち寝ていられないのかもしない。

それを見ていて思ったのだが、組員の昇格テストしたらどうだろう。具体的には上記のようなシチュエーションをつくり、舎弟がたくさんいる中、親分が外に出てくる。そこへ突然、ヒットマン(実はやらせ)が登場!「ゴルアアァァ!死にさらせやぁぁ!!」と叫んで空砲を乱射する。はたして何人の舎弟が親分の盾になるだろう。真っ先に盾になった男は「次期若頭」だろう。そしてぼんやり見ていたやつはクビだ。(みな逃げちゃったりして...)

極道も楽じゃなさそうだ。
写真は、寺山修司著「きみもヤクザになれる」(ヤクザによるヤクザのためのヤクザ思想入門の書!)
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2007年03月19日

へんなワシ 

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諸事情があり活動を停止していたバンドのメンバーと久しぶりにカラオケへいった。(スタジオじゃないのか!)もともと「カラオケ同好会」から発展したバンドなので、メンバー全員カラオケが好きだ。
今回は自分の音痴度を再確認するために新兵器の「MP3レコーダー」なるものを装備しての出動だ。3時間ほど歌いまくり、帰ってから聞いてみたが、うん、確かにヘタだ。
しかしなんだろう。自分の声だけ妙にちがって聞こえる。だれでも経験があると思うが録音された自分の声というのは「誰?」と言いたくなるほど気持ちがわるくなる。

思うに、寝言以外は生まれてから発した音をすべて聞いているわけだから、誰よりも本人が自分の声を一番よく知っているはずだ。声帯から出た音を頭蓋骨をとおして聞くのと同時に、いったん口から出た音を耳からも聞いている。自分以外の人は口から出た音だけでその人の声を記憶しているから、環境の違いでギャップが出るのは当然だ。

だから録音された声は他人が聞いたその人の声と同じなのだ。自分が知っている自分の声は正確には自分しか知らなくて、他の誰も聞いたことがない。だから本当は対外的にみれば不正確なわけだ。よく「写真」に写った自分の顔が変にみえたりするのも、鏡に映った自分の顔を記憶しているためだが、それと同じようなことがいえると思う。

そこにある“物や音”を感じるときは、誰でも同じ条件で見たり聞いたりするわけだから問題ないが、自分のこととなると、ひょっとしたら“本人”が一番知らないのかもしれない。他人の目ばかり気にするのはどうかと思うが、多少は“人からどうみえるか”も気にしたほうがいいのかもしれない。

そう、性格も含めて。
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2007年03月05日

スクーター盗難事件発生! 

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3日深夜、我が家で友人達と麻雀をしていたら、玄関におまわりさんが来た。聞くところによると近所でスクーター(125ccの大きなやつ)が盗まれて乗り捨てされたとのこと。驚いて玄関に出てみると50mくらい離れたところに友人のスクーターが放置してありパトカーと警官が3人いて困惑している最中だった。どうやら我が家の駐車場に止めてあったそれを盗んだのだが、前後輪ともロックがかかっており、重すぎて運びきれずにあきらめてその場に放置したらしい。(放置現場の前の家の人が警察に通報)

すぐ見つかって幸いだったのだが、あんなものを力技で運ぼうとするのは、きっとこの辺りにも多い外人さんの仕業に違いないということになった。決めつけるのはよくないが、確かに近所の若者にしては大胆すぎるし、計画性がなさ過ぎる。物入れに入っていたタバコ2箱がなくなっていたことからも、なんとなく外国人の匂いがする。仮に日本人だと、そういうことをするヤツはもっと陰険で、盗めなかった腹いせに空き地へぶっ倒して逃げたり、バイクを破壊したりするだろう。(そういうところは日本人のほうがセコい)

近所では、古い洗濯機や冷蔵庫など、捨てようと思って玄関先に出しておいたら一晩でなくなったという話も聞いた。ブラジル系の人たちが軽トラックで現れてサッと積んで、持っていってしまったのだそうだ。

コンビニの駐車場にたむろしていたり、宣伝カーのように爆音でラテン系の音楽をかけながら走っていたり、スーパーの売り場で大声でふざけていたりと、日本人の若者でもあまり見かけないような我がもの顔の言動が目につく、まあ、危害を加えられるわけじゃないからまだいいんだけど、「郷に入れば、なんとやら」もう少し住み着いた国の常識くらいわきまえてほしいものだ。

処分したいテレビなどの有料ゴミは、ちょっとキレイにして玄関先に出しておけば、きっと持っていってくれるぞ。

ちなみに、バイクを盗まれた友人は偶然にもその日、誕生日だった。

写真は意味なし。
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2007年02月23日

競走馬 

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競馬で走る馬。「サラブレッド」というのは、早く走るためだけに交配を重ね血統がつくられている。「ガラスの足」と例えられるように、その足は非常に細くもろいものだ。それゆえちょっとしたアクシデントでも簡単に骨折したりする。ヒビが入る程度なら治療し、何ヶ月後かにはレースに復帰できるほど回復することもあるが、立てないほどひどい骨折をしてしまうと、寝たきりになり(体重が500kg前後あるため)床ずれをおこし、そこから体が化膿してしまいいずれは死に至る。仮に治っても今後レースに出ることはまず不可能なため「予後不良」としてその場で安楽死させることも珍しくない。

1998年秋の天皇賞で故障して予後不良となった『サイレンススズカ』もその一頭だ。いわゆる「逃げ馬」で、スタートしてから他の馬をぐんぐん引き離しそのまま勝ってしまうタイプの走り方をするのだが、サイレンススズカの逃げっぷりはすさまじく、見ていて気持ちがいいほどの走りだった。しかも普通、逃げ馬はよほど先行していても4コーナー辺りでかなり差が詰められ、そこから頑張って逃げ切れるかどうかが勝敗を分つのだが、彼は馬群が詰まるどころか、最終コーナーを曲がってからも、さらに差が開くという恐るべき走りだった。

事実、故障した天皇賞も大逃げをうち、3コーナー手前で2番手の馬に10馬身、3番手に15馬身、先頭から最後尾の馬までの距離が長過ぎてカメラで捉えきれないほどだった。おそらく誰しも勝ちを確信したであろうその直後、悲劇は起こった。。。。JRAが2000年におこなった「20世紀の100名馬」の人気投票でも4位に輝いているほどファンの多い馬だ。

昨日書いた「夢駆ける馬ドリーマー」を観ていて思ったのだが、この映画は実話であり(どこまでかは知らないが)、レース中に骨折転倒した馬が奇跡の復活を果たすというものだ。馬は寝る時も立っている動物なので、お腹を網で釣り(ハンモックのように)足に体重がかからないようにして治療していた。

確かに粉砕骨折をしたら二度とレースに出ることは出来ないだろう。でも、ひょっとしたら「どうせ苦しんで死ぬ」というのは間違いで、多くの場合そうやって治療すれば歩けるくらいには回復するんじゃないのかと思った。しかし、治ったところで今後お金を稼いでくれるわけでもなく、治療のためには多くの労力と莫大な費用がかかる。さらに生きている限りずっとお金がかかる。おそらく「役に立たなくなったものに巨額のお金はかけられない」という考え方が馬主をはじめ競馬関係の暗黙の了解で、「予後不良」ということで処分されるのだろう。

しかし元々競馬なんて「お金持ちの道楽」で、自分の馬を持つこと自体よほど裕福でないと出来ない。だったらできる限り治療して、JRAが北海道に巨大な「引退馬パーク」でもつくって、そこを訪れると歴代の名馬に乗れるようにすれば、競馬ファンは喜ぶんじゃないだろうか。もちろんそれで採算が取れるとは思わないが、それくらいのリスクを背負って馬主になってもらいたい気がする。
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2007年01月28日

葬式 

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洋画などで出てくる葬式のシーンは「あっさりしていてシンプルだな」と思う。仏教のように形式張った仰々しい儀式のようなものがない。列席者が見守る中、墓地に埋葬して、神父さんが「ほにゃらら、ほにゃらら、アーメン」で終わりである。「ワシが死んだらああいうのがいいなぁ」などとちょっと憧れてしまう。残された遺族もゆっくり気持ちの整理をつけることができるのではないだろうか。
しかしそれだけのためにクリスチャンになるのもちょっと不謹慎かもしれないしなぁ。
写真は昨日書いた映画「ドゥーマ」のワンシーン
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2007年01月19日

動物虐待 

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【42歳無職・猫虐待男を逮捕!苦しむ様子を見るのが快感…】
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/cruelty_to_animals/
まったくキチガイです。信じられない行為ですがたいした罪にはならないのでしょうね。
こんなやつは死刑じゃ!

とはいえ、人の尺度や倫理も微妙でして、これが「屋根裏にいたネズミ」だったらどうでしょう。あるいはペットのハムスターを買ってきて虐待していたとか、庭で捕獲したハトやスズメだと、また違いますね。
小動物を虐待する行為自体が異常な精神だといわれるのでしょう。当然です。
では、「ノラ猫を殺して食べていた」だったら異常でしょうか。日本人は基本的に猫を食べたりしないのでやっぱり「日本では異常」ということになります。ではでは「ブタやウサギを庭で増やして食べていた」のだったら、おそらくニュースにもならないのではないでしょうか。

整理してみると、「正当な理由があるか」そして「苦しい思いをさせていないか」で、異常かそうでないかは判断されるようです。ようするに「無用な殺生はするな」です。

日本では年間50~70万頭の猫や犬が処分されているそうです。「苦しまないように処理される」という話ですが、多くの場合、密閉された箱に入れられ、二酸化炭素を注入し窒息死させます。本当に苦しくないのでしょうか。捕獲された野良もいますが、大半は「生まれちゃったから」「引っ越すから」など飼えなくなったという理由で連れてこられた者たちです。中には「飽きたから」「高齢で先が長くないから」「新しい子飼うから」というふざけたものまであるといいます。彼らは不安のなかで意識が薄れゆくとき、なにを思うのでしょうか。

確かにどんどん増えすぎてもらっても困るわけですし、そのため各地域では「捕まえて去勢をする」などの運動がなされています。今まさに「ペットブーム」で、今後大きな社会問題になっていくことと思います。
「飲んだら乗るな」「飼うなら最後まで」。飼い主一人一人が心がけたいものです。

いずれにせよ、この男には古代スパルタのようにネコが受けた虐待と同じことをしてやるべきではないでしょうか。

ワシは今からスーパーで買ってきた「トンカツ222円」を食うぞ。
写真はそのスーパーに貼ってあったPOP(祭りらしい、しかも全国規模)
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2006年12月31日

時間 

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今年の日本人にとって共通したうれしい出来事と言えば、やはりトリノオリンピックでの荒川静香選手の金メダルではないだろうか。来年はどんなことが起こるのか楽しみだ。

そうやって毎年過ぎていくわけだが、歳をかさねるごとに一年の過ぎる時間が加速度的に早く感じる。子どものころの一年はとてつもなく長く感じたし、実際一日が過ぎるのももっとゆっくりだった。

ある人が「それは自分の記憶との対比で時間を感じるから」といっていた。極端なことをいえば、1歳の子どもが2歳になるのには、今まで生きてきた人生と等しい時間が必要だ。いい換えれば10歳の人が20歳になるまでの時間と同じようなもの。50歳の人の一年なんて、その人の人生の中のたった1/50ということだ。

ようは観測者の経験と記憶の基準の違いということだとおもう。地上1メートルのところに立っている人が2メートルの場所に立てばずいぶん高くなったように感じるだろうが、地上100メートル地点にいる人は、たかが1メートル上がったところで、さほど高くなったようには感じないだろう。

観測者の事象と現実の違いだと、こういう例もある。
平行して走っている車に乗っている人がキャッチボールをしたとする。乗っている人同士にとっては、ボールを投げて到達するまでの距離は、車が10メートル離れていれば、もちろん10メートルだ。しかし、車が通り過ぎるのを地上で見ている観測者にとっては、その瞬間ボールは斜めに飛んでいき10メートル以上(車の速度よる)移動することになる。同じ1秒だったとしても、立場によって現実が異なるのだ。

人は平均3万日弱生きられる。もちろんワシはもうずいぶん過ごしてしまったので、あと1万日生きられるかどうかだが、明日のことは誰にもわからない。残された時間が長かろうが短かろうが、せめて充実した日々をおくりたいものである。
来年はなにかと忙しくなりそうだ。不安半分、期待半分といったところか。

写真は意味なし
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2006年12月28日

ATM 

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ATMを利用しようとしたら年末で混んでいた。といっても6組ほどで、2機あるからすぐにすむだろうとタカをくくって列に並んだ。しばらくしてもなかなか前に進まないので見てみると、一人のご婦人が(たぶん40代)一機占領して、永遠にどこかへ振り込みをしているようだ。しかももう一機は年配のおばさんが使用していて、何度も機械に「もう一度初めからやり直してください」といわれていて、あげくの果てに機械の前で考え込んでしまった。
自分の後ろを見るといつのまにか十数組の列ができている。ワシの前にはあと二人いたので、黙っていたが、さすがに図々しすぎるので、一言いおうと思ったとき、やっと「独り占め女」と「初めからおばさん」は済んだようで、同時に機械の前をリアクションなしで離れていった。よっぽど「この行列見てなんとも思わないのか」って言おうと思ったけど、顔が気持ち悪かったので妙になっとくしてしまい、ノドまで出かかった言葉を飲み込んで、おもわず目をそらしてしまった。
「初めからおばさん」はともかく、「独り占め女」は、おそらくネットショップかヤフオクなどへの支払いだろうから、インターネットバンキングとか持てばいいのにと思うのと同時に、人間、歳を重ねるごとに「性格って顔に出る」とつくづく感じた。

写真は意味なしです。(どんなときでも白黒つけたほうがいいのかな)
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2006年12月04日

地獄少女 

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TV放送の「二籠り」をやっているので、時々観てしまう。悪人を最後に懲らしめる。ようするに「必殺仕事人」っぽい話で、なかなか面白い。

「小学生7割、中学生の5割が死んだら次の世界がある(あるいは生まれ変わる)と思っている」というアンケート結果をみた。だから現在の環境に不満なら、リセットすればいい。次があるから“死”への恐怖や不安は少ないと解釈できる。テレビやゲームなどのメディアの影響なのだろうか。これは宗教にも同じことが言える。ほとんどの宗教では、死は一つのステップであり、真理に近づいたり(または堕ちる)生まれ変わる(輪廻転生)と教えている。「死んだら終わり」と説いている宗教など聞いたことがない。「死は最終です。死んだらなにもありません。だから生きているうちに他人を蹴落としてでも自分だけいい思いをしましょう」そりゃそうだ、それじゃ宗教にならない。

ワシは死んだことがないので、なんともいえないが、少なくとも“魂”というか、なんかこう、エネルギーというか、そういうものはあるような気がする。死んだら霊魂のようにその辺を浮遊しているとかじゃなくて、もっと大きな星とか宇宙とかの大いなる次元の中に吸収されていくんじゃないかと勝手に思っている。(イメージとしてね)

些細なことでも誰かがよろこぶのをみるのはうれしい。だからといって“日々善行を積み重ねよう”などと思ったりもしない。ワシは所詮その程度の存在。生きている間、せいぜい生きるだけ。自分の魂が死んだ後、ステキな場所へ行けるかなんて考えは、そもそもおそれ多いと思う。素晴らしい偉人たちの行いに「生きててすみません」などと、心のどこかで多少反省しーの、「とりあえず今日は遊んじゃおう」と、自分の(自分だけの)楽しみを見いだすのであった。

まったく、地獄少女じゃないけど「イッペン、死ンデミル?」である。
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2006年10月17日

現在過去未来 

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夕飯時、大根の煮物を食いながら女房がふとつぶやいた「なにもかわらないね」。
世の中は自分たちが生まれたころと、たいしてかわらないというのだ。
そういわれてみれば、江戸から明治、戦前、戦後と日本はすさまじい発展を遂げた...らしい。知識では激動の時代が続いたと知っている。しかし、ワシが物心ついたとき、我が家にはいわゆる三種の神器(テレビ、冷蔵庫、洗濯機)はあった。電話もあったし自家用車もあった。インスタントラーメンもジーンズもあった。テレビはカラーになり、いまや地上波デジタル。5ドアのチルドルーム付き巨大冷蔵庫に、コインランドリーのような乾燥機付きの洗濯機。電話は無線になり、車もエコロジーカーが主流だ。インスタント食品も多種にわたり、ジーンズはデニムと名前を変えて、いまやローライズなるスタイリッシュなデザインが流行っている。だがしかし、性能や使い勝手は変われど基本的に当時からあるものだ。突如現れて、大きく生活を変化させたものではない。

確かにこの半世紀近く基本的には、たいしてかわらない暮らしだ。平和だからいいじゃないかといえばそうだし、江戸時代の泰平はもっと長かっただろう。

では、この数十年のあいだに生活の中で大きく変わったのはなんだろう。水やお茶をお店で買うようになったこと? あるいはグラビアのヘアヌード? いやいや、少なくとも自分の生活の中で大きく変わったことは、パソコン(インターネット)だ。もはや手離すことは出来ない生活の一部となっている。仕事道具であり、テレビやラジオの代わりでもあり、電話であり辞書である。まさに情報とコミュニケーションの宝庫だ。さすがに自動車のように移動は出来ないが、お店で買い物まで出来る。スゴい!

ところがそんなに便利なのに、いまいち満たされていないと感じる時がある。たぶんそれは、見たり聞いたり出来るけど「さわれない」し「嗅げない」からじゃないかと思う。きれいな花があってもその香りやそよぐ風は感じない。樹や川の流れに触れることもできないし、ノラ猫においでおいでもできない。

遠い未来、自分がくたばった後、転送ボックス(物質転送)やタイムマシン、無重力発生機などが発明されれば、その時の人たちの気持ちは満たされるようになるのかもしれない・・・。

せまい庭だけど野菜でも作ってみるか。
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2006年09月25日

命とは...3 

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二日前、親友の親父さんが亡くなった。
今日の葬儀には行けそうもなかったので、昨夜通夜会場にいったが、
遅かったため扉は閉まっており、控えの人もいなかったので、
ガラス越しにお別れをさせてもらいました。
無口な人でしたので、数回顔を合わせただけで言葉もかわした記憶がありませんが、とてもまじめな人だったと思います。ご冥福をお祈りいたします。

自分の年齢が上がって来ると必然的に訃報を聞く機会が多くなる。
順番といえばそうなのだが、その度に「死」という現実が身近なものに感じて、
その人との思い出や、残された家族のこととか、自分の立場に置き換えたりして、
しばらくボーッとしてしまう。

このところ書いているように、生物の寿命はDNAのテロメアという部分でほぼ決まっていて、人の最大寿命は120年と言われている。これまで最も長生きしたのはフランスのジャンヌ・ルイーズ・カルマンさん(女性)で122歳(1997年没)、2番目は鹿児島の泉重千代さん(男性)で120歳(1986年没)。そしてこの三年間に本郷かまとさん116歳、川手ミトヨさん114歳、小山ウラさん114歳と相次いで亡くなり、現在存命中の皆川ヨ子(よね)さんが113歳で長寿日本一である。やはり120歳が人の寿命の限界のようだ。
とはいえ、寿命をまっとうできる人はごくまれで、多くの場合その前に病気や事故で死ぬ。せめて病気や事故に遭わず気楽に死にたいものである。

「願 は く は 花(桜) の 下 に て 春 死 な む」
そのきさらぎの望月のころ  (西行)
と続くと思ったが...まさにそんな心境で、いやいや春まではまだ半年もあります。
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2006年09月04日

子猫殺し 

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8月18日の日経新聞に、直木賞作家・坂東眞砂子の『子猫殺し」のエッセイが掲載されて物議を呼んでいる。
倫理的な観点や動物愛護の目から多方面で、彼女と新聞社に対して抗議の声が殺到している。
読んでいて思ったのはまず、彼女は大騒ぎになることを期待して寄稿したのであろうということ(反論したくなるような考え方を随所にちりばめてある)。それと非難されることは容易に予測できるはずなのに掲載してしまった新聞社の能無しぶりだ。
内容は、作家だけあって巧みに観点をすり替えて自分を正当化(あるいはしかたない)している。そもそもペットを飼うという行為自体人間のエゴイズムやわがままである。いずれどこかにひずみが生じてくる。その全てにおいて「めんどうをみる覚悟」がなければ飼うべきではない。それを「一匹の親猫の生(性)の幸せ」と「数十の子猫の命」を天秤にかけてごまかしている。別の問題なのに混同しているのだ。多くの飼い主は「性」を奪う代償として、餌や環境で「生」を与え、生涯愛することでやむおえないとする中、彼女は生じた矛盾を清算するために「子猫殺し」をチョイスしている。痛みや悲しみを伴うといってはいるが、ふつう人間は一番楽な方法を選ぶ。お金も時間もかからないし、産まれたら崖から捨てる、ただそれだけだ。「セクースは好きだけど、コソドームは快感が損なわれるのでイヤ。子どもが出来たら産んで捨てればいい」。人間の生活はやめて森で暮らすべきだ。
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2006年09月03日

犬の断尾 

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以前、動物病院にいった際、たまたま犬の断尾をしている最中だったようで、奥の処置室から数頭のギャンギャンという仔犬の叫び声が聞こえてきていた。また道を歩いていると、散歩させてもらっている尻尾のない犬をよく見かけるが「なぜあんなことをするんだろう。きっとなにか重要な理由があるに違いない」と思っていた。

現在、全犬種中およそ4分の1の種に対して、年間10万頭弱、およそ20%の犬が断尾されるのだそうだ。その理由はこうだ。
●狩猟犬は狩猟の際、あらゆる場所を通るので、イバラ等で尾を傷つけてしまった場合、化膿しやすく、結局尾を切らなければならなくなる場合がある。(まずねーよ)
●狩猟の際、犬の興奮時における尾の振りは、近くの草木をこすったりして音を立てるので、獲物に気付かれて逃げられる可能性がある。(ハンターかよ)
●ガード犬の場合、攻撃者がその長い尻尾をつかむことで犬の攻撃を制御することが出来るから尾が長いことは欠点である。(先に噛まれるて)
●作業犬として荷車を引くときに、長い尾は邪魔である。(させねーだろ)
●キツネやイタチやネズミ等の駆除で狭い軒下や穴ぐらを通り抜けなければならないので、長い尾は邪魔である。(しねーて)
●200年ほど前のイギリスで家畜商の飼い犬を対象として、税金を納めた証拠に断尾された習慣が、現在にも残っている。(税金納めろよ)
●糞便で汚くなった尾は犬の泌尿器に密接しているので不衛生である。(洗ってやれよ)
●自分の長い尾を追いかけましたあげくに噛んで傷つけてしまうのを防ぐため。(教えてやれよ)
●牛追いの時、牛に尾を踏みつけられない為。(牛まで飼ってるのか)
●昔、運河のはしけのマスコットとして飼われていた際、尾がない方が狭い船内等を行動するのに便利だろうと断尾された。(変わらねーよ)
●その他「断尾をする習慣がある犬種の血統だから」という理由。(詳しく聞けよ)

なんとまあ、ほとんどがペットとして飼われている現代社会にはそぐわない、お粗末な理由ばかりである。ようするに「昔からそうだから」ということだ。
以前日本でも『鍋島の猫騒動』などから、猫の尻尾を切る習慣があったようだが、現代でそんなことをしている人はまずいない。(その習慣で今でも西日本のほうが生まれながらに尻尾が短い猫が多いとか)
当の西洋では、すでにほとんどおこなわれなくなった「断尾」。動物病院でその行為をすると医師免許を取り上げる法律がある国も存在する。
そこの愛犬の尻尾切っているあんた「柱の角に足の小指ぶつけるとあぶないから...」っていう風習があったら切るかい。「足の小さい女性は美しい」という習わしがあったら自分の娘に纏足(てんそく)履かせるかい。

ちなみに、立ち耳にするためとか、不衛生とかで「耳」まで切っちゃうっていうから、日本人っていうのもまったくあきれた存在だ。「そういうものだと聞いたから」「みんなそうだから」じゃなくてさ、理由を聞けよ。おかしいと思えよ。たった十数年しか生きられないんだからさ、家族なんだろ。あー、腹立ってきた。
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2006年08月08日

レジ待ち 

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歯磨き粉(粉じゃないが)がきれていたのでドラッグストアに立ち寄った。「クリアクリーン(摘みたてベリー)」これはうまそうだ。なにやら15周年記念だそうで、「ぴちぴちピーチ」というのもあった。

購入するものはこれひとつだったのでレジに向かったら、ゲゲッ混んでる。当然一番空いているところに列んだが、それでも3人いて、みな買い物カゴに沢山入れて待っている。ひとり目が終わったころ、おもむろに前のおばちゃんがこちらを振り向いた。恰幅がよく、怖い顔でこちらを見て...(え?なに?ワシなにかした??)...「あなたそれひとつでしょ、先にどうぞ」。

意外だったがとてもうれしかった。礼をいって遠慮なく順番をゆずってもらった。人は見かけによらないものである。(おばちゃんゴメン)ちょっとした親切でも優しさに触れるとその日一日気分がいい。自分もおばちゃんのようにありたいと思った。
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2006年05月21日

野菜直売所 

昔々子どものころ、近くの畑の脇には、日よけを立てかけた縁台があった。いわゆる「野菜直売所」である。縁台の上には野菜と値札、そして空き缶が置いてあり、これがレジだ。野菜が欲しい人はそこにお金を入れて持っていく。もちろん誰もいない。のぞけば小銭が入っていたが、誰も盗もうとする人は(子どもすら)いなかった。親にいわれるまでもなく、大人が態度を示していたからである。

大人が大人としての威厳をもっていた。それが教育だったいい時代である。いつのころからかなくなったのは、きっと人の心が変化したせいなのかもしれない。
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