
前回の『星を追う子ども』ではキャラクターの個性も弱くて感情移入しづらくちょっと残念でした。ところで、数ある『ジブリ都市伝説』のなかに「ラピュタ 幻のエンディング」というのがあるのをご存知でしょうか。これは、通常エンディングの後、パズーがシータをゴンドアまで送っていくエピローグのようなものが入っているというのです(ラピュタを観たことのある人の中の相当な割合でその記憶がある)。
実際はそんなシーンはないのですが(ジプリも否定している)、物語に引き込まれて観ていた場合、それを観終わった人はけっこう真剣に「これから二人はどうするんだろう」とか考えます。実際劇中のパズーのセリフに「見たいんだ、シータの生まれた故郷を」とかありますし、政府の要人がシータをさらいにいくシーンでシータの家も出てくるわけで、そういった情報から人はいつのまにかイメージを作り出してしまうのだと思います。
これは、ストーリーや世界観がしっかりしていて各キャラクターに存在感があるので、いつのまにか自分が物語に入り込んでしまい「その世界は存在し、その人たちは生きている」と錯覚しているからこそ起こる現象だと思います。実写ならそうなりやすいでしょうが、アニメは絵なので物語に引き込むのは簡単なことではありません。
宮崎作品には、ものを食べるシーンが多用してあったり、キャラクターの何気ない仕草が効果的に使われています。またキャラクターの性格もしっかり設定されていて、いかにもこの場でその人がしゃべりそうなセリフがあててあります。これを「リアリズムを出すために計算してやっている」と聞いたことがありますが、ワシにはそうは思えません。おそらく作者がその物語に一番入り込んでいるからこそできる表現だと思うのです。そう、作者はそこで見たものを詳細に描いているだけで、キャラクターは作者の世界の中で生きているのです。
「自分が想像した世界の中に自分がいる」というのは妙な表現ですが、名作を生み出す作家はそんな風にして物語を書いているのではないかと思うのです。しかし残念ながら最近のアニメなどは「受けそうな話しを用意して」→「キャラを決めて」→「意外性を狙いながら組み立てる」というふうに、世界観やキャラクターに現実味がなく、それなりに味は違うけれど、まるで工場で量産されたポテチのように薄っぺらで既製品っぽくなっているような気がします。
「幻のエンディング」が、おそらくないと思う根拠として、「観た」という人の言っている証言がけっこうバラバラなのです。
・ゴンドアで握手をして別れる
・ゴンドアで手を振って別れる(パズーは凧?)
・ゴンドアにパズーが会いに行く
・ゴンドアで村人たちが大歓迎(セリフはない)
・草原で牛と戯れるシーンがある
・シータが牛を放牧中に、パズーが会いに来る
・シータの家の暖炉に、飛行石を再び隠すようなシーンがある
・「ここがシータの育った所なんだね」と暖炉の前で話してた
・動画ではなく、静止画である
当のワシも2番目に近いものを見た記憶があります。手前パズーが振り向いて手を振っている。奥にシータと家があり笑って手を振っている。いかにもいま送り届けてパズーが帰るところのシーン(BGMありセリフなし)。というものですが、こうやって証言を並べてみても絵的に様々で、記憶が人それぞれ作り出されているかがわかります。
ありもしないシーンまで想像させるのは、その作品の完成度がいかに高いかということを物語っているのではないでしょうか。しかもそこまで計算して当時作ったのであれば、やはり宮崎駿は天才といえるでしょう。ただ、最近の作品は作者の「入り込み度合い」が弱いのか、あるいは「歳とって頭が固くなったのか」、感情移入してしまうほどのものに巡り会っていません。ひょっとしたらワシのほうがボケているだけだったりして。。。
というのは、16日に地上波で「借りぐらしのアリエッティ」が放送され、16.5%という高視聴率を記録したそうです。しかもその一週間前、9日に放送(13回目)された「天空の城ラピュタ」の視聴率は15.9%だったようです。10%を超えれば上出来といわれる現在、13回目の再放送にして15.9%は、相変わらずの人気の高さを物語っているのではないかと思います。
画像は宮崎駿が描いた後日談のイラストです。幻のエンディングを見たことがあるという人の何割かはこれからきているのかもしれません。